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Posted by チェスト at
 

2012年01月14日

◆九州山口の近代化産業遺産群に関わった人々~与論移住を考える

「マルヤガーデンズ」(7Fオープンガーデン)でのトークショー

「九州・山口の近代化産業遺産群に関わった人々

~与論移住を考える」
を聴講して参りましたので、

以下、概要をレポートいたします。 




大牟田の 永吉 守 氏 (NPO法人大牟田・荒尾炭鉱のまち
ファンクラブ運営委員)
のお話がメインで、




「かごしま探検の会」の東川さんが司会。
 

100年以上前の 明治31年、、、
三池炭鉱の石炭積出作業倍増↑↑のために、

鹿児島の与論島から、当時の島民の15%もの1200人が
島原の口之津へ、集団移住していたなんて、、、

初めて聞いて、ビックリいたしました!!


集団移住のきっかけは、当時の大型台風による大災害★
「ソテツ地獄」とも言われるほど、飢餓がひどく、悲惨だったとか。
(食べ物がなく、アク抜きしてないソテツの実を食べて、死者多数続出。) 


集団移住後、与論の島民たちは、島言葉で「ユンヌンチュ」と自称し
本土の人からは、さまざまな面で差別され、過酷な下請労働で
低賃金 かつ、まともな住宅さえもない劣悪な条件下でした。

それでも、みんなで、なんとか頑張れた理由は、
<島の集落単位>で移住して、三線や舞踊などの
文化コミュニティによる結束力・相互扶助・精神的支柱のお蔭だったとか。

また、移住民と本島(与論)との、ヒトや情報のやり取りも密で、
例えば、戦後、アメリカに占領された与論島の「本土返還の請願」が、
三池の地からも、福岡地裁に出された程だったとか。

・・・初めて聞くお話ばかりでしたが、
当時の皆さま方のご苦労を察すると、胸のつまる思いでした。

100年前の島民たちの、苦難を生き抜く強さにも心を打たれました。

しばらくして、石炭積込み作業が、島原の「口之津港」から、
炭鉱近くに新設された「三池港」へと移り、

それに伴い、多くの島民が、口之津から、三池へ、再移住したとか。
 
ちょうど2010年が、「三池移住100周年」で、
世代交代や現地化も進む中で、記念式典もあり、
あらためて、絆が深まっているそうです。

人々をつなげる文化コミュニティの大切さを感じました。

「集団移住」は、昨年の 【 311大震災 】にとっても、
今後、長い目で見て、重要なテーマだと思うので、
何らかの参考になるのではないか?と感じました。
      


次回(=第4回)のトークショーは、
1月14日(土)18:00~ 「マルヤガーデンズ」garden4にて。 

テーマは、「近代化産業遺産対決~佐賀藩VS薩摩藩~」
三原宏樹氏(NPOまちづくり研究所代表) 


毎度、知らない歴史秘話で感動するので、
こうなったら、全回制覇したいナ~! 
o(^-^)o

ただ今、昨秋と同じパネル展も、再度 開催中です。

鹿児島の皆さんに ゼヒ 知っていただきたい史実です。


◆ 「九州・山口の近代化産業遺産群を世界遺産へ」パネル展 ◆

マルヤガーデンズ garden4

2012年1月9日(月)~22日(日)
10:00~20:00

お問い合わせ先
099-227-5343
  


Posted by 春風 at 10:10 Comments(2) 鹿児島
 
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